山岡鉄舟ゆかりの寺 臨済宗国泰寺派 普門山全生庵を訪れて
谷根千ガイド2019年4月30日

山岡鉄舟ゆかりの寺 臨済宗国泰寺派 普門山全生庵を訪れて

住所:〒110-0001 東京都台東区谷中5-4-7 Googleマップ
電話番号:03-3821-4715
HP:http://www.theway.jp/zen/
臨済宗国泰寺派 普門山全生庵に取材に伺い副住職の本林義範さんにお話しをお聞きしました。全生庵は、山岡鉄舟が幕末・明治維新の際に国事に殉じた人々の菩提を弔うため、明治16年に建立されました。全生庵には山岡鉄舟の他に、落語家の三遊亭圓朝の墓所もあり、圓朝遺愛の幽霊画が約50幅所蔵されています。毎年8月にある「圓朝まつり」の時には幽霊画展が開催されています。
以下、「全生庵の歴史と背景」「三遊亭圓朝と幽霊画」「山岡鉄舟と三遊亭圓朝のエピソード ~桃太郎の話しから無舌を悟るまで~」「地域への想いや印象について」を、本林さんに執筆して頂きました。

取材に伺った時は桜が満開でした。

左は全生庵さんの入り口にある「全生」と書かれた石碑。右は、観音様

全生庵の歴史、背景

全生庵という名前の由来は鎌倉時代にまで遡ります。建長寺を開いた蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)は、中国の宋から招かれて鎌倉に向かう途中に台風に遭い、現在の全生庵の辺りに漂着しました。そこで、小さな家を建てて、これを「全生庵」と名付け自ら筆をとって書いた扁額を掲げました。たまたまこの傍に角谷(つのや)という人がいて、よくお世話をしていましたので、蘭渓道隆は、いよいよ鎌倉へ向かうという時になって、それまでお世話になったこの角谷氏に「全生庵」の扁額を与えました。
時は移り明治7年、山岡鉄舟は当時淀橋に住んでいました。一方、角谷氏は代々その書を大切に保管し、明治時代となって子孫の角谷彦三郎がそれを受け継ぎ、自ら淀橋で営んでいた餅菓子屋の店頭に掲げていました。山岡鉄舟は当時宮内省に勤めていましたが、その行き帰りにいつもその扁額を見て、その筆力の強さ、典雅な趣に心惹かれ、不思議に思っていたそうです。
さて、彦三郎の隣人が偶然山岡鉄舟の屋敷に出入りをしていて、鉄舟はこの隣人に扁額の事を語り、その額を深く称賛しました。隣人がそれを彦三郎に告げると、彦三郎は大変喜びました。何故ならば、彼が扁額を店頭に掲げていた理由は、まさにこの扁額の価値を理解してくれる人物を求めていたからだったのです。彦三郎は鉄舟こそ、その人であるとし、この額を贈ろうとしました。鉄舟は始めこれを固辞しましたが、たっての願いという事でこれを受けとったのでした。
鉄舟は始めこれを書斎に掲げていましたが、のち明治13年、一寺を建立するにあたって国泰寺の越叟禅師の協力のもと、国泰寺派の寺院があった谷中の地を選び、隣接地を購入しました。すると、何とその付近一帯がもとは角谷氏の土地であったことが解りました。鉄舟はその奇縁に感じ入り、書斎の扁額を堂内に移して寺号とし、ここに全生庵が誕生したのでした。鉄舟は自らも「全生庵」の三大字を書し、これは堂外に掲げました。堂内と堂外に「全生庵」の扁額が掲げられ、両者相俟って美観をなしていましたが、残念ながら明治27年の火災により焼失してしまいました。

三遊亭圓朝と幽霊画

全生庵所蔵の幽霊画50幅は三遊亭圓朝のコレクションと言われます。通説では、生前圓朝が柳橋の料亭で怪談会を催した時から収集しはじめたといい、百物語にちなんで百幅が集められて、圓朝他界後、そのうちの半数が全生庵に寄贈されたと言われています。Rしかし実際は、百幅揃わないうちに圓朝は他界したようで、没後、圓朝後援者の藤浦氏が40幅をまず寄贈し、その後、明治・大正・昭和を通じて少しずつ増えて50幅になったと思われます。つまり厳密に言うと圓朝コレクションと言いながらも圓朝自身が集めたもの以外の幽霊画もあるということになります。しかし、どちらにしても圓朝に関係するという点では変わりはありません。是非8月の幽霊画展では様々な幽霊画をご覧になって頂ければと思います。
【幽霊画展:8月1日~31日(期間中無休)10:00~17:00(最終入場16:30)拝観料500円】

幽霊画の展示

山岡鉄舟と三遊亭圓朝のエピソード ~桃太郎の話しから無舌を悟るまで~

圓朝が鉄舟と出会ったのは明治10年頃と言われ、年令は39歳。程なく不惑を迎えようという年令で、既に名声を欲しいままにし、落語界においても確固たる地位を築いていました。しかし、自分の中に何か物足りなさを感じていたのでしょうか、この頃より禅に心を寄せるようになり、始め外交官陸奥宗光の父・伊達自得の主宰する禅の会に参加し、その縁で、鉄舟や勝海舟と並ぶ幕末三舟の一人、高橋泥舟の知遇をうけ、さらに泥舟より鉄舟を紹介されたのでした。

通説では、ある時鉄舟が圓朝に向かって桃太郎の話しがが聞きたいと言って桃太郎の話しを語らせましたが、お前は舌で喋るから駄目だと、その不出来を責めて、それより禅の道へ導いていったとされます。しかしここでは、同じ桃太郎の話しでも別のストーリーも伝わっていますので、それを紹介することにします。

その話しは、明治時代に圓朝本人から話しを聞いて書かれた「三遊亭圓朝子の傳」という文章に紹介されています。それによれば、泥舟を通じて鉄舟と知り合った圓朝は、ある時鉄舟邸に招かれた際、「何か面白い話でもしましょうか」と持ち掛けました。すると鉄舟は「桃太郎の話しが聞きたい」と言ったのです。圓朝は、そのような子供でも知っている話しではなく、もっと面白い話しはどうかと思いそう言いました。すると鉄舟はさらに続けて「私は、小さい頃に母親から聞いた桃太郎の話しがとても面白かった。素人の母親でも大変面白かったのだから、落語家のあなたが話したらもっと面白いのではないかと思い頼むのだ」と言ったのです。圓朝は大いに困ってしまい、結局桃太郎の話しはできず、別の話しでお茶を濁してその場は終わってしまったのでした。圓朝は非常に悔しく思い、何とかこの恥辱を晴らさなければと、桃太郎の新作噺を作り次の機会をうかがっていました。

その後、浅草のお寺の行事で再会した際、鉄舟に「以前はうまく桃太郎の話しができませんでしたが、今回新たに噺を作ってきましたので是非お聞き願いたい」と言いました。すると鉄舟は「あの時は何となく聞きたかったが、今は別に聞きたいとも思わないし、却って聞くことが煩わしい。あなたには気の毒だが桃太郎の話しはしなくてもよい」と言われてしまいました。ここにおいて圓朝は新作の桃太郎噺をする機会を失って大いに面目を失い落胆したのでした。
しかし、ここからが圓朝の素晴らしいところなのですが、圓朝は、この一連の自分に対する鉄舟の仕打ちこそ、自分の心を試そうとするものだと感じ、鉄舟の人柄に大いに魅かれて、これ以降、鉄舟を慕い、付き合いを続けていったのです。つまり、この「三遊亭圓朝子の傳」の中では、圓朝は結局、鉄舟に桃太郎の噺をさせて貰えませんでしたが、それが却って圓朝の心に深く響き鉄舟に対する尊敬の念を抱かせるきっかけとなったのでした。
しかし、圓朝が無舌を悟るには鉄舟による更なる試練が待ち構えて居ました。それを次にみていきましょう。

ある日、鉄舟が圓朝に「寄席の高座に上っている時に、もし聴衆の中に欠伸をしたり、噺の途中で帰る者がいたら気にかかるか」と尋ねました。圓朝が「気にかかります」と答えますと、鉄舟は「それが気にかかるようでは名人とは言えない。剣術の極意に例えると、客は敵である。その敵である客に向かって噺をするときに客が欠伸をしたり、途中で帰るという事は、敵がこちらに斬り込んでくるのと同じである。その時はこれに立ち向わず身をかわして、これを避けるべきである。これができてこそ、あなたの落語においても、私の剣術においても、名人とも上手とも言えるであろう」と答えたのでした。圓朝は「では客のすることに気にかけないようになるにはどうしたらいいですか」と聞きました。すると鉄舟は「やはり禅を修するのが最もよい」と答えました。

折しも鉄舟邸へ出入りしていた医者の千葉立造という人物が、やはり鉄舟の導きにより公案という禅の問題に取り組み一つの悟りを得ていましたので、圓朝も鉄舟より同じ公案を貰い、日夜のその工夫に取り組みました。しかし、この公案が全く解らないのみならず、苦しむ事が非常に多く、果ては死にそうな位まで追い詰められてしまいました。

苦しむ事約3年、明治13年9月24日に千葉立造の新居披露の宴会が催されました。この場には鉄舟、泥舟はじめ鉄舟の禅の師でもある京都天龍寺の滴水和尚など禅を好む人が大勢集まりました。この時、鉄舟は師の滴水和尚と共に圓朝に向かって「あなたは落語家の中では有名である。ならば舌を動かさずに口を結んで噺をしてほしい。今それを聞きたい」と言い出しました。圓朝は驚き「それは中々出来難いです」と言うと、鉄舟は集まった人々をかえりみて「このような事を出来ないというのであれば圓朝は大の下手にして前座よりも劣っている。これが出来てこそ圓朝の値打ちがあるので、出来ないのであればしかたのない人物だ」と言い放ったのです。そして、そのまま暗い別室に連れていかれました。
向かい合って座るとさらに鉄舟は迫り続けました。「あなたも名人圓朝と言われる程の人物で、尚且つ禅も好んで修しているのであれば無舌という事位はわかるであろう。いざ我が前にて舌を動かさず、口を結んで噺をしてみなさい、どうですか、どうですか」と問い詰め続けました。それに対して圓朝は困りながらも必死になって工夫をしました。しかしさっぱり解らず脂汗を流して苦しむばかりです。鉄舟は容赦なく益々責め立てて4時間程過ぎた頃、圓朝は以前聞いた伊達自得の講義の事を思い出して、そこから漸く無舌の意義を悟ったのです。そして、これまで鉄舟が自分を散々苦しめてきたのは、まったくこの禅理を悟らせるための方便であったのだ、と深く感謝したのでした。これ以降、圓朝は自ら志願して、鉄舟の師である滴水和尚に参じ、後には高座に上っても客の態度が気にならなくなったといいます。
このように見てきますと、この山岡鉄舟や三遊亭圓朝の時代(特に明治時代)の禅は、僧侶では無い在家の人々にも禅が広まり始めたとは言え、現代と違ってまだまだ厳しい面が残っていたと言えるでしょう。現代においても禅の厳しさは根本的には変わらないのですが、門戸を広げ、マインドフルネスや心理療法からのアプローチもあるなど入りやすくなっている面はあると思います。ですから禅に興味のある方は、まずは気軽に無理のない範囲で坐禅会に参加してみては如何でしょうか。

地域への想いや印象

谷根千エリアに住むようになって30年程になります。元々私は教員で僧侶ではありませんでした。そして、山岡鉄舟が好きで、鉄舟の建立した全生庵があったために谷中に興味を持ち、さらに住み始め、とうとう僧侶にまでなってしまいました。
街中は古い建物や道筋がまだ多く残っており、江戸から明治にかけての面影をしのぶことができますし、また最近は観光客も増えてきて、様々な施設やお店もできてきています。古いものと新しいものが共存して、また新たな活気が街全体に漲っているようにも思います。長く住んでいてもまだまだ新しい発見があり、興味が尽きません。ぜひ訪れる際には歩きながら街の中を彷徨って頂ければ楽しいのではないでしょうか。

全生庵の行っているイベント

日曜坐禅会 原則毎週日曜日18時より開催(お寺の行事の都合で休会の場合あり)

初心者要予約。全生庵HPよりお申し込み下さい。

写経会 原則毎月最終土曜日15時より(お寺の行事の都合で最終土曜日でない場合あり)

初心者要予約。全生庵HPよりお申し込み下さい。

いずれも参加される場合は、開催の有無を事前に全生庵HPで確認、又はお問い合わせ下さい。
住所:〒110-0001 東京都台東区谷中5-4-7
Googleマップ 電話番号:03-3821-4715
HP:http://www.theway.jp/zen/

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