谷中七福神の寿老人にまつわる長安寺の不思議なお話
谷根千ガイド2018年11月28日

谷中七福神の寿老人にまつわる長安寺の不思議なお話

観音寺住所:〒110-0001 東京都台東区谷中5-2-22 Googleマップ
アクセス:東西めぐりん「10-三埼坂上」「15-三崎坂上」or JR山手線「日暮里駅」からどうぞ
長安寺HP:http://www.choanji.net
およそ250年前から始まったとされる「谷中七福神」は最古の七福神巡りとされています。その七福神の「寿老人」を祀っているのが長安寺。朝倉彫塑館もある「初音通り(正式かどうかは不明ですが地元ではそう呼ぶ人が多い)」のちょうど真ん中位の場所にあります。寿老人とは中国の伝説上の人物で、道教の神。日本では、長寿の神様として、長い頭と白髭のイメージが強いですよね。そんな寿老人を祀る長安寺には少し不思議な言い伝えがあります。

長安寺案内

上野王子駒込辺三十三ヶ所観音霊場22番礼所の長安寺

寿老人の言い伝え

(長安寺にて明治初年発見した由来による ※許可を得て掲載しております)

むかし谷中付近は、西に富士、東に筑波を眺める静かな丘陵地帯であり、春は桜、あきにはすすきに映える名月と四季を通じて文人墨客の清遊の地であり、早春には、梅花にたわむれる鶯の名所でもあった。

いつの頃からか、この鶯の初音にさそわれて、行脚の老翁が、この地にとどまるようになり、長安軒と名付ける小さなお堂をたて、壽老人(徳川家康の納めたものという)の尊像を安置して給仕していた。たまたま老山和尚(長安寺開山・寛文九年)が、日暮れにこのあたりを通りかかり、一夜の宿を長安軒にもとめた。その夜、老翁が和尚に語るには、『前々から、ご立派な方に、この小さなお堂ではあるがお譲りしたいと思っていたところ、幸いなことに今夜あなたがここにお泊りになった。どうぞこのお堂をお守りしていただきたい。この堂内に安置してあるのは、七福神の内の南極星壽老尊人で福徳自在の神である。即ち、いのち長くして諸願を果す福、父母に孝行の福、子なき人には子孫繁栄の福、病人には諸病平癒の福、又戦火もなく財録増進の福、農家には五穀成穣の福、商人には商売繁昌の福を授け与える神である。このことをよく衆生に教えさとして、祈念するようにすすめていただきたい。

そもそも、この里は、不忍の岡に弁才天あり、護国院に大黒天あり、感応寺(現在の天王寺)に毘沙門天あり、当長安軒に壽老人あって、将来は、これに基いて七福神を祀る地となるであろう』と(現在、日暮里青雲寺に恵美壽神、修性院に布袋尊、田端西行庵<東覚寺>に福録壽が祀られている)時に枕辺にひびく鐘の音に驚かされて、和尚が頭をあげてみれば、一睡の夢であって、起きて老翁を尋ねさがしたが、何処へ行ってしまったか、見あたらなかった。やむをえず和尚は、長安軒に止まることになった。

その後、年去り日は移って明治元年の夏、徳川家恩顧の旧家臣等が東叡山へたてこもり、新政府軍に対して反乱を企てていた。この時、壽老人を祈念していた二・三の人達の夢中にお告げがあって、このあたりは、すべて戦場となり、火災も発生するであろうから、婦人子供老人たちを早く避難させなさいと教えられた。果たして同年五月十六日(旧暦)政府軍、浪士軍の戦端が開かれ、ここ谷中附近一帯は陰惨な戦場と化し、処々灰燼となったけれども、住民は辛くも難をのがれた。戦火鎮静ののち、人々はこの霊夢でのお告げを尊しとして、みな礼拝するようになった。

長安寺

長安寺には近代日本画の発展に大きく貢献した「狩野芳崖」のお墓があります

狩野 芳崖(かのう ほうがい、文政11年1月13日(1828年2月27日) - 明治21年(1888年)11月5日)は、幕末から明治期の日本画家で近代日本画の父。幼名は幸太郎。名は延信(ながのぶ)、雅道(ただみち)。号は松隣、皐隣。盟友たる橋本雅邦[1]と共に、日本画において江戸時代と明治時代を橋渡しする役割を担うと共に、河鍋暁斎、菊池容斎らと狩野派の最後を飾った。

引用:Wikipedia

観音寺住所:〒110-0001 東京都台東区谷中5-2-22 Googleマップ
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